‘ラーメン今昔物語’ カテゴリーのアーカイブ

第八十二話 長男の嫁はイヤ!

2013年4月15日 月曜日

 先日たまたま見たテレビで心がスカッとすることがありました。それはある番組での細木数子さんの一喝の弁です。
 それは、スタジオに集めた百人の若い独身女性たちに司会者がアンケート式の質問をし、その答えに対し、細木さんがコメントするという内容でした。そのときの質問は「“長男の嫁にはなりたくない”イエスかノーか?」というもので、長男であり、かつ息子を持つ僕としては見逃せない質問でした。
 さて、その結果はというと、イエスと答えた女性は七五人、ノーは二五人でした。イエス(長男の嫁は嫌だ)が多数であろうことは想像していましたが、以外にノー(長男の嫁でもよい)と答えた女性が二五%もいたことに、僕は意外な喜びを感じました。
 そこで司会者がイエスと答えたある女性にその理由を尋ねると(言葉の細かいところは不正確ですが)「だってェ~、姑と一緒に暮らすのはウザイしィ~、特に田舎では跡取りがどうのこうのと面倒だしィ~」という答え。予想通りながらやはり悲しいものがありましたが、一方でノーと答えてくれた女性たちに、僕は一縷の望みを託しました。しかしその望みはすぐに打ち砕かれました。女性曰く「長男だとォ~、何と言ってもォ~、財産とか資産とか~、全部もらえるじゃないですかァ~」と。
 両者の言葉を聞いて、僕はこの国に滅亡の危機を感じました。そして思いました「中国の潜水艦よりも北朝鮮のテポドンよりも先に、自国のこんな娘たちによって日本は滅ぼされるかもしれん。ならいっそ、必死で救いを求めている日本人拉致被害者と、この娘たちとを交換したほうが、よっぽど祖国のためばい」と。しかしそんな僕の心を救ってくれたのが、細木さんの次の一喝。
 「バカバカしくて答える気にもなれない。長男でも親の財産は独り占めできないのよ。子供全員平等なのよ。それより長男を嫌う貴方たちに聞くけど、みなさん長男は生まないのね?男の子は一人も生まないのね?その上での考えならまだしも、だいたい貴方たちは“因果応報”の大原則を何も解っていない。そんな貴方たちが生む長男には嫁は来ないわね。来ても貴方たちみたいな嫁が来て、今度は貴方たちの長男が苦労するのよ。昔の戦争では長男は徴兵されなかったの。外で戦う者だけでなく、家を守る人も必要で、その役目が長男だったの。家を守るということは、国を守るということ、それを当時は皆わかっていたの。そんなことも何も考えない小娘が言いたい放題!このままでは日本はダメになるわ!」大体こんなコメントでしたか。
 スタジオは一瞬シーン、“小娘”たちは理解したのかシラケたのか、ただ無言。僕は心中、拍手喝采でした。そして僕はふと、二十年前の結婚当時を思い出しました。今の女房と結婚を決めたときのことを。
 「わかっとろーばってん、俺は小さなラーメン屋の長男。当然跡を継ぐ。その覚悟はあるや?」という僕の問いに、女房「あなたのご両親が何屋さんでもかまいません。そしてあなたのご両親なら、自分の親と思って愛します」女房は、その宣言から二十年を経たいまもそれを貫いているようです。金剛力士のオヤジも実の娘のように可愛がりました。そのオヤジが亡くなったとき、女房が泣きじゃくりながら棺桶に一人しがみついて、なかなか火葬ができなかったのを憶えています。
 もしかしたら今の自分や店があるのも、貧乏ラーメン屋の長男の嫁に、喜んで来てくれた女房のお陰かもしれません。感謝しています。・・・ちょっとテレクサイ。

第八十一話 免許皆伝

2013年4月15日 月曜日

 ~免許皆伝~ この言葉は、武道や芸道の師匠が弟子に、その奥義を伝授することの意味ですが、ラーメン屋の僕もこの言葉を時々使います。それは将来の独立を夢見て頑張っている弟子(社員)たちに対して。
 僕の店の弟子たちは皆、よく頑張っていますが、そんな弟子たちも大きく分けて二種類います。一つは「大砲で仕事をするうちに、次第に惚れ込み、最後まで大砲に付いて行き、大砲に骨を埋めよう」と決心している弟子。もう一つは将来の「一国一城の主」を夢見て修行に励んでいる、独立希望の弟子です。今回はその独立希望者の話。
 先日、独立希望者であったH店長が大砲を卒業(独立のための円満退職)しました。彼は大砲で約十一年に及ぶ厳しい修行を経て晴れて卒業したわけですが、その際、僕は彼に「独立開業のための無償支援」を約束しました。要するにH店長が店を出すための物件選定のアドバイス・コンセプト・店舗設計・ロゴ・信頼できる業者の紹介・メニュー構成・その他諸々のコンサルタントを大砲が無償(一般のコンサル会社に依頼すれば数百万円)で行うということです。いわゆる免許皆伝です。過去にも同様のケースが何件かありましたが、何れもその卒業生は、うちの独立支援を経たのちも、立派に一国一城の主として頑張っています。しかし!勘違いなさるな読者諸氏。大砲で十年も勤めれば誰でも免許皆伝というワケではありません。それまでには沢山のハードルがあります。多くの人は「麺揚げ」と「スープ作り」さえうまくできれば、誰でもラーメン屋ができると思っているかもしれませんが、そんな簡単な世界ではありません。実際、入社後わずか一年で、僕の反対を押し切って退職し、独立開業した弟子(モドキ)がいましたが、その店は、これまたわずか半年で予想どおり潰れてしましました。修行年数と開業後の店の存続年数は正比例します。しかし僕が彼の独立を反対した理由は修行年数だけではありません。たとえばラーメン修行に必要なハードルが百あるとすれば、彼はたった一つ目のハードルを越えただけでソノ気になり、もっと大切な九十九のハードルを無視し、僕の手を振りきって独立したのでした。その後は当然の結果でした。
 ちなみにそのハードルの中身がどんなものかと言いますと、それらのハードルは大体三つの段階があります。まず初期のハードルは当然、麺揚げやスープ作りなどの体で覚える「技術」です。中期のハードルは頭で覚える「知識」と経営に係わる「技能」。そして後期のハードルは(最近、特にITやファンドの世界で見失われつつある)道徳的で正しい商道を身につけるという「精神」です。そして最後に最も大切なハードルがあります。それは「感謝」です。これが最終ハードルです。これを越えて初めて、大砲の免許皆伝となるのです。それは簡単なようでなかなか難しい。感謝とは言葉ではなく、自然に身について初めてその人の行動からそれが見えてくるものです。H店長は僕に独立の相談を持ちかけてからも、さらに二年、幾度となく開業のチャンスがあったにも係わらず、自らの判断で大砲の店の状況(忙しさと人手のバランス)を優先しました。それはこれ見よがしではなく、さらりとした自然な行動でした。僕はそんな彼の姿を見て、ついに最終ハードルを越えたのを感じました。いまH店長は大砲の免許皆伝の卒業生として、元気に夢の開業準備に励んでいます。

第八十話 追憶の底

2013年4月14日 日曜日

 最近、忘れていた遠い昔の一コマが、なぜかふと甦りました。
 それはもう四〇年以上も前のこと。僕は保育園から帰るといつも、そのまま両親が営むラーメン屋台に向かいました。テレビもないキノコの家(初代熱風録・その5に登場)で淋しく留守番するよりも、両親のいる屋台の周辺の歩道にチョークで絵を描いて遊ぶほうが何より楽しく、また両親もその方が安心だったようです。今のように幼児の誘拐や殺人など皆無の良き時代です。僕の遊び場は夜の町の歩道でした。
 お絵描きに遊び疲れると、僕は決まって近くのあるところへ遊びにいきました。それは久留米なのに「道頓堀」という名の歓楽街の一角にポツンと座っている女性の易者さんのところです。 彼女はいつでも優しく幼児の僕の相手をしてくれました。細くて色白の静かな人で、年の頃は三〇ちょっと過ぎといったところでしょうか、小さな台には手の平の絵が描かれたロウソクの行燈が置かれています。その揺れる灯り越しに見るその人の笑みはいつも、何となく淋しそうでした。
 ある日、遠くの町へ家族で出かけたときの帰りのこと。夜汽車の窓の遠い町明かりを、僕はぼんやり眺めていました。時おり足早に過ぎ去る遮断機の音の向こう、闇に浮かぶ家明かりが、ゆっくりと流れていきます(そういえば“千と千尋の神隠し”の水面を静かに走る電車の幻想的なシーンを見たときも同じ感覚でした)。僕はふと、あの薄暗い家明かりのなかに、道頓堀の易者の女性がいるような気がしてなりませんでした。
 数日後の夜、そのことを確かめようと、道頓堀の角に行ってみましたが、その人はいませんでした。そしてその後も、その優しい易者の女性は僕の前に現れることはありませんでした。
 そして時は流れ、僕が小学五年生の頃のこと。家の近くに銭湯があり、ある日その銭湯の向かいに小さなタコ焼き屋が開店しました。
 僕は銭湯で一風呂浴びた後、さっそくそこにタコ焼きを食べに行くと、その店は三十後半くらいの細身の女性が一人でやっていました。この人もどこか翳りを感じる静かな人でしたが、胸の病でも患っているのでしょうか、カチャカチャと千枚通しでタコ焼きを返す手を、ときおり休めては後ろを向いて「コホン、コホン」と咳をしています。僕は不潔さも感じず、千枚通しの音と咳のリズムがなぜか心地よかったのを憶えています。その時「もしかしたらこの人は、あの道頓堀の易者さんでは?」という思いがよぎりましたが、その頃は僕も五年生でしたから、幼児期のように大人の女性に屈託なく問いかけることもできないまま・・・、やがてほどなくその店もその人もどこかへ去ってしまいました。
 今回、ただそれだけの話でしたが、遠いとおい過去の記憶が突然わき上がる、そんな経験は皆さまにもおありでしょう。
 何か、意味があることかもしれませんね。

第七十九話 心の在庫処分

2013年4月14日 日曜日

 長年ラーメン屋をやっとりますと、色んな物売りを目にします(別にラーメン屋じゃなくても同じでしょうが)。そんなもんを見過ぎたのでしょうか、最近心に異物の蓄積を感じています。
 ちょっと棚卸しさせて下さい。
 
 ~某業界の店主編~
 ・「こだわり」が売りの「とらわれ」店主
 ・「ガンコ」が売りの「不勉強」店主
 ・「職人」が売りの「芸能人」店主
 ・「情熱」が売りの「癇癪(かんしゃく)」店主
 ・「人情」が売りの「欲情」店主
 ・「匠(たくみ)」が売りの「企(たくら)み」店主
 ・「企み」が外れた「逆恨み」店主
 
 ~そんな店主の商品編~
 ・「元祖」が売りの「模倣」商品
 ・「評判」が売りの「茶番」商品
 ・「自慢」が売りの「自慰」商品
 ・「自然」が売りの「工場」商品
 ・「共存」が売りの「対抗」商品
 ・「伝統」が売りの「退化」商品
 ・「進化」が売りの「愚か」商品
 
 ~少しフロク~
 ・「愛」が売りの「宗教戦争」
 ・「神」が売りの「テロリスト」
 ・「正義」が売りの「報復殺人」
 ・「反省」が売りの「へつらい国家」
 ・「個性」が売りの「無秩序教育」
 
 まあこんなところですが、読者の皆さんにもそれぞれ心に蓄積したものがおありでしょう。たまにはリセットしてみては如何?便秘は体に毒です。
 今回はこんなもんでお許しを。

第七十八話 初代熱風録・最終章

2013年4月14日 日曜日

 山内一豊じゃありませんが、成功者というか、世に出た人の陰には必ず奥さんの内助の功があるようです。
 さて、屋台の強制立ち退きで、ラーメン稼業存続の危機に立たされたオヤジ。屋台の移転先も見つからず、新たに店舗を構えるような資金など「宵越しのカネなど残さない」オヤジにあろうはずがありません。名物の吽形(うんぎょう)像の恐ろしい顔も次第に崩れ始め、つり上がった眉は下がって目はうつろ、固く閉じた口も半開きとなり、金剛力士はのび太君へとメタモルフォーゼしてしまいました。
 母はそんなオヤジを黙って見ていましたが、ある日突然「お父さん、もう屋台はやめて店舗ば出さんね」オヤジは怒る気力もなく、のび太君の顔のまま情けない声で「そげなカネどこにあるや?」すると母「あんたの枕の中ば見てんね」オヤジは言われるままに自分の枕の縫い目を解き、ソバ殻の中に手を突っ込むと、何か手に触れるものがあります。取り出してみると、それは大判小判がザックザク…いや、一枚の預金通帳でした。開いてみるとビックリ、残高一〇〇万円!(当時の一〇〇万円は今の貨幣価値で一千万円位でしょうか)しかも通帳はオヤジの名義。オヤジはこの時ほど母の行為に感動し感謝したことはありませんでした。途端、オヤジは俄然パワーがよみがえり、顔はイキナリのび太君から吽形像へと戻りましたが、なぜか笑顔の吽形像(気持ち悪!)。早速その枕の資本金を元に小さな土地を購入し、そこに木造の住宅兼ラーメン店舗を建てました。これが今の五穀神社前の大砲ラーメン本店であります。
 面白いのは、オヤジが長年愛用してきた屋台の処分の方法です。当時は営業権利の付いた屋台の売買は許されていたし、買い手はいくらでもいました。普通の人なら、売った屋台の収入を新店舗の開業資金に組み込むものですが、普通じゃないオヤジはさにあらず。
 ある神社の境内で、オヤジは自分の屋台に酒をかけて清めると、何と火を付けて燃やしてしまったのです。信じられない行為ですが、オヤジとしては「我が分身のごとく愛した屋台を赤の他人に譲るくらいなら、いっそ自らの手で葬りたい。ゼニカネの問題ではない」そんな思いでしょうが、しかしやることが凄まじい。屋台の燃えさかる炎の向こうに浮かぶオヤジの立ち姿は、正に金剛力士像そのものだったようです。
 やがて新店舗は無事開店しました。以来、何度かの改装を繰り返しながら四十年を経た現在も、お陰様で本店は健在です。オヤジは九年前に亡くなってしまいましたが、金剛力士の思いは僕から弟子たちへと受け継がれています。
 しかしながら今思えば屋台時代、近所が火事になったとき、オヤジの枕を抱えて外へ飛び出し、周りから笑われても黙ってその枕を抱きしめていた母。その枕が一家の危機を救い、その後のラーメン家業を継続させてくれたのです。
 世の人は、世間で活躍する人がいれば、とかく本人のみを評価しがちですが、その人を陰で支える人の存在も知るべしですね。

第七十七話 初代熱風録・その6

2013年4月14日 日曜日

 戦後間もない頃から現在まで続いている久留米の屋台。夜になると立ち並ぶ屋台の明かりは、まちの風物詩であり、博多同様、全国に誇る久留米の文化であります。ひと昔前の博多の観光パンフレットには、那珂川の水面に映える中洲のネオンビル街の写真というのが一般的でしたが、最近では川べりに立ち並ぶ屋台の風景に取って代わり、テレビCMやドラマのロケにもよく登場するようになりました。博多のみならず、久留米にとっても屋台文化はまちの貴重な観光資源となったのです。しかし平成六年、県警は屋台を自然消滅させるべく「道路使用許可は現営業者一代限りとする」という方針を打ち出しました。その結果、博多も久留米も少しづつ、しかし確実に屋台の明かりは消え続けています。一体どういう立場の人が何を目的に、この大切なまちの文化と観光資源を消滅させるのか?僕には理解できません。今からでも「屋台存続の賛否を問う県民投票」でもやってもらいたい気分です。もっとも「屋台存続賛成」の票が圧倒的多数という結果は容易に想像できますが。
 さて、時代は遡って昭和四〇年代初頭、僕のオヤジの話に戻ります。
 ラーメン作りの腕とケンカの腕っ節、そんなオヤジのキャラは評判を呼び、いつの間にか久留米の繁盛屋台となっていました。ついには何と隣の焼き鳥の屋台まで借り上げ、それを自分のラーメン屋台と直結、誰も見たことがないラーメンと焼き鳥の“ツイン屋台”を登場させたのです(今の条令下では考えられない)。
 おでん→酒→焼き鳥→酒→ラーメンというヨッパライのハシゴが一件の屋台でまかなえる(まるで屋台村のミニ板)ということで、オヤジのツイン屋台は大ブレイクしました。屋台を始めた初日の売上がわずかラーメン一八杯だったことを思えば、いまのこの繁盛ぶりは夢のよう。しかし「江戸っ子と“オヤジ”は宵越しのカネは残さない」とでも言いますか、利益の内部留保等の経済観念など皆無のオヤジです。利益はそのまま酒に化け、オヤジの胃袋の中に消えていきました。
 ところが、ドラマで使い古された慣用句「そんな夢の日々は長くは続かなかった」という事態が発生。突然当局から「道路拡張ならびに歩道整備のため」という名目で、オヤジの屋台に立ち退きの命令が出たのです。さすがに金剛力士像のにらみも、ケンカの腕っ節もお上には通用しません。ついにオヤジのラーメン人生に最大のピンチが訪れました。
 さあオヤジどうする!

第七十六話 号外・ラーメンピック(下)

2013年4月14日 日曜日

 乙女たちが考案した創作ラーメン、その名は“愛秋(あいしゅう)ラーメン”作品テーマは「信愛らしく 美味しく 美しく」に決定、そのレシピの骨格も決まりました。あとは試作を繰り返しながらこの骨格に肉付けをしなければなりません。残された一ヶ月を全力で突っ走るだけです。
 でもさすがに「健康栄養学科」の学生、包丁を持つ手も、中華鍋を振る手も真剣そのもので、基礎も出来ています。また洗い物や最後の清掃も進んでやります(これが肝心)。開発作業は、スープ・麺・トッピング、それぞれのグループが別教室・または学校外(麺工場訪問等)に分かれて同時進行でやる訳ですが、数日後に試食会をやってみると、意外にもその三つのアイテムが丼の中で違和感なくピタッと合いました。ちょっとした感動。さらに、試食会を重ねる毎に作品の完成度が増すのです(応援団チームの踊りも同様)。やがて“愛秋ラーメン”の全体像が見えはじめました。その姿は次のとおりです。
 
●スープ:とんこつと鶏ガラをブレンドし、香味野菜とワインで余分な臭みと雑味を除き「あっさりした中にコク」を出す。味付けは、昆布と醤油をベースに“植物性の焦がしネギ油”で香ばしさを出し“完全無化調”に挑む。
 
●麺:とんこつ用の“低加水のストレート”という定番の麺に、わずか数本の“色つき麺(赤・緑・黄)”を加え、色のアクセントをつける(たぶんラーメン業界初)。
 
●トッピンッグ:“実りの秋”を感じる旬のキノコ類と“紅葉”を表現するための色野菜類をクルトン状にカットして炒めたものを盛りつけ、中央には、鮮やかな柿色に染められたウズラの柿玉子(懐石料理の技)を一個配置。食味の変化と栄養のバランスを考えて“豚の角煮”を添える。また食材は全て、“地産地消”の考えで、地元産を使用する。
 
 これが“愛秋ラーメン”の姿です。
 まるでプロの創作レシピです。これが完成すれば、年末によくやるテレビのラーメン王でも優勝間違いなしでしょう。
 しかしラーメンピックは、ひとりのスターを誕生させることが目的ではありません。僕は終始学生たちに絶対ルールを課していました。それは「全ての食材の下処理から出来上がりまで、四八人全員の手作りとする」ということ。そして最後にプロのコツを伝授しました。それは「調理の最後に、君たちの“愛”という調味料を、ひと振り加えてほしい」ということです。
 このひと月、四八人の乙女たちは、突然現れたラーメン屋のオヤジたちの指導を素直に受け入れ、そして見事に突っ走ってくれました。完成した“愛秋ラーメン”その容姿は、この子たちの心を反映して最高の美人でした。
 やがて本番。彼女たちは前夜遅くまで、さらに当日は早朝から仕込みです。一一時の提供時には、ブース前には長蛇のお客様。疲れ知らずの彼女たちは、元気に声を掛け合いながら本当に楽しそうに調理していました。
 お客様の評価は、言わずもがな。食べる表情で解ります。ステージでは“くるトン応援団”が、元気な踊りで会場に華を添えてくれています。客席のウエイトレス担当の子たちも楽しそう。
 こうして二日間のラーメンピックは、幸福感に包まれながら終了しました。
 これが本来の“祭り”の姿ですね。今回つくづく感じました。今までの「いかめしいラーメン店主たちが、自分のプライドだけのために火花を散らし合う」という、市民不在のフェスタから、八年目にして小規模ながら本来の“市民の祭り”に帰結した気がしました。
 ある学生が僕たちに言いました。「この二年間の学生生活で一番の想い出になりました」と。いま僕の自宅の机の上には、祭りのあとの彼女たちの集合写真を立て掛けていますが、その彼女たちのはち切れそうな笑顔を見るたび思います「君たちの方こそ大切なことを教えてくれた」と。

第七十五話 号外・ラーメンピック(中)

2013年4月14日 日曜日

 そこに我々が見たものは!なんと!女・おんな・オンナだらけだったのです・・・・!(期待させた割にはこんなオチですみません)教室に入るなり、四八名のハタチの女の子集団の目が一斉に僕たちに注がれました。担任のO教授(女性)が僕たちの紹介と、来校の目的を説明し始めました。しかし、初めての、そして今後一生経験することは無いであろうこの異空間で、僕たち三人は脳ミソ蒸発状態。教授の説明が終わる頃、やっと学生たち一人ひとりの表情を見る余裕が出てきました。僕たちを見る目が、興味津々の子、ちょっと警戒心の子、無表情子、どこかで見た子、色々でしたが、以外にもケバイ子はいません。そして「金八先生」に必ず出てくる「腕組んでふてくされたワル」もいません。それどころか、最近の短大ではでは珍しい”制服”を清楚に着こなし、全の「起立・礼」もきちっと揃っています。いつかこのコラムで書いた「起立・礼はおろか生徒に何の礼節も教えないアノ無秩序な公立小学校」とはえらい違いです。しかもこの短大の学生は皆、関係のないクラスの子でも、廊下ですれ違う僕たちに「こんにちわー」と、笑顔で挨拶するのです。まるで今は無き矢部村の飯干小学校の(これもコラムでお馴染み)あの子供たちのようで、安心しました。と言うより感心しました。素晴らしい教育です。
 しかし今の僕たちには思いにふける時間はありません。この与えられたわずか一マス(九〇分)で、ラーメン開発から本番までの段取りを全て決めなくてはなりません。しかも本番までひと月しかないのです。まるで数年前に経験したTV「愛の貧乏脱出大作戦」の達人役を思い出します。
 僕たちは自己紹介もそこそこに、先ずはこのクラス四八名を「スープ開発グループ」「麺開発グループ」「トッピング開発グループ」と、三つの開発グループに分けることにし、早速、アンケート用紙を配布して、自分が希望するグループや、作ってみたいラーメンのテーマやイメージを自由に書かせました。それを回収し、すぐに別室で、予め選出されていたチームリーダー(全体のリーダー)、サブリーダー(各開発グループのリーダー)たちを集め、クラス全員のグループ編成の作業をさせ、決定した各グループのメンバーを発表。教室内を三カ所に分け、学生はそれぞれの所属グループの場所に移動。そこで一旦全員を注目させ、アンケートの集計結果を発表。さすが若い感性に溢れた女学生、コミカルなものから、プロでもハッとさせるような瑞々しいアイデアの宝庫。僕は得票数の多いアイデアを優先しながらも、プロとしてのアドバイスを加えつつ、テーマを絞り込みました。やがて決定したテーマは「信愛らしく 美味しく 美しく」(後の修正案)。このテーマを元に各グループでブレーンストーミングをさせ、僕たちが商品や店舗を開発するときに使うコンセプトワークを駆使し、作品の顔づくりをしました。やがてテーマに沿ったラーメンの顔が次第に見え始めました。
 しかして、そのラーメンの顔とは一体?

第七十四話 号外・ラーメンピック(上)

2013年4月14日 日曜日

 “初代熱風録”シリーズの途中ですが「号外」というより「割り込み」で大変申し訳ありませんが、今回と次回は先月(一一月一二日)開催されましたイベント“ラーメンピック”の話をさせて下さい(ワガママ平にご容赦!)。
 皆さまご存知の“ラーメンフェスタin久留米”去年は国民文化祭という位置づけで過去最大規模となり、総務大臣表彰まで受賞して全国ラーメン界の話題を一身に集めました。
 お陰様で久留米は「不景気のまち」から「ラーメンのまち」へと全国的にイメージが定着し、フェスタの当初の目的は達成されたと言ってもよいでしょう。
 そして今年のフェスタ。従来の、地元店と全国の有名店を多く招いた「プロ同志の激しい勝負」という派手な企画から思い切って方向転換し、一般市民参加型のラーメンフェスタに生まれ変わりました。若手のプロの招待店二店以外は、地元学生による創作ラーメンの店二店のみ、計四店舗という、去年に比べると極めて地味で小規模なフェスタです。その名を“ラーメンピック”としました。エントリーの学生チームは、チーム名「くるトン」こと久留米信愛女学院短期大学と「青春希望号」こと祐誠高等学校。両チームがオリジナルのとんこつラーメンで競う訳ですが、やはり基礎の部分で「プロの指導」も必要では?となり、それぞれの学校が希望するラーメン店に指導を依頼しようということで、信愛女学院さんは僕たちを指名されました(ホント。決して僕たちの押し付けではありません)。 去年のフェスタで燃え尽き、今年はゆっくり外野から見守ろうと思っていた僕ですが、せっかくのご指名と、簡単な指導ならばということで、またもフェスタに絡むことになってしまいました。
 ところがどっこい、祐誠高校の方はわずか五名という少数精鋭のチームであるのに対し、この信愛の「くるトン」チームは健康栄養学科二年全員の四八名という大部隊。しかも全員が女子(当たり前)。そして若い!それを束ねて一杯のラーメンを創作させるのです。 さらにそのラーメンは完全オリジナルでなくてはなりません。当然、自分の店のスープと麺を持ち込み、トッピングだけを学生に考えさせて「ハイ、創作ラーメンです」なんてことは許されませんし、それでは指導ラーメン店同志の代理戦争(コレが一番見苦しい)になってしまいます。またフェスタそのものも学校に宣伝の場を与えただけとなります。
 僕は、スープも麺もトッピングも本気で学生たちに考えさせ、何度も試作させ、本番でも僕は一切手を出さないということ(当たり前)を決めました。考えてみれば、これは大変なことです。去年のフェスタのラーメンバトルで、支那そばやの佐野さん・一風堂の河原さん・デビット伊東さんたちと、僕は創作ラーメンで勝負しましたが、ある意味その時よりプレッシャーを感じました。
 指導初日、本部の所長・本店の店長と三人で華の信愛女学院の門をくぐり、クラス全員が揃う教室のドアを開ける時の、ある種の覚悟を今も覚えています。「ケバイのがおるやろにゃ~。スネたのもおるやろ。ばってん、怒っちゃイカンイカン」そう自分に言い聞かせながらドアを開けました。そこに我々が見たものは!!!

第七十三話 初代熱風録・その5

2013年4月14日 日曜日

 十数年に及ぶラーメン屋台から、昭和四二年、ついにオヤジは小さいながらも念願の「店舗」を持つことができました(現在の本店)。僕は小学三年生、今でもその頃のことはハッキリ覚えています。
 その店舗の立地というのは、町の中心部から外れた、古くて淋しい住宅地でした。屋台であれ”明治通り”という、まち一番の賑やかな商業地から一転、商売に極めて不向きな土地への移転ということは、当然オヤジは承知の上。それなりに覚悟していました。
 それは、こんないきさつがあったからです。
 屋台時代、我が家は六畳一間のオンボロ借家住まいでした。その家はとても古く、雨が降るたびに雨漏りとの戦い。狭い部屋のあちこちに空き缶を置いて、その隙間で食事したり寝たりするという家の中のアウトドア生活。梅雨の時期などは、雨漏りの湿気で畳が腐り、そこから白いキノコが何本か生えていました。僕は友だちを呼び寄せ、それを見せては「ほら~、ウソじゃなかろうが~。ホンナモンのキノコが、ちゃんと家の中に生えとろうが~」と、それを信じなかった上流家庭の子(現在A幼稚園のF園長)に自慢していました。
 オヤジと母は、そんな僕があわれに見えたのか「均、待っとれ。そのうちキノコの生えないふつうの家を建てるけん」と心に誓ったそうです(ついに僕の実名登場)。
 でも僕としては、雨の降る夜に聞こえる、空き缶に落ちる水滴のリズミカルな音色は、いい子守歌であり、白いキノコと共に好きな家でした。
 そんなある日、東の空が白み始める明け方、突然けたたましいサイレンの音で僕たち家族は目を覚ましました。皆で外に飛び出すと、空が炎で真っ赤に染まっています。火事です。すぐ近くの家がメラメラと音を立てて燃え上がっています。近所の人たちも皆外に出て、心配そうに火の行方を見守っています。母はなぜか枕を抱きしめて立ちつくしています。僕は怖いながらも、慣れ親しんだキノコの家との別れを覚悟していましたが、やがて消防士や消防団の皆さんの懸命の消火活動のおかげで、何とか火は収まり、家とキノコは焼かれずにすみました。
 ほっとしながら母を見ると、相変わらず枕を抱きしめたまま。オヤジは母を見て「火事場で枕ひとつ抱えて飛び出す慌て者のハナシはよう聞くばってん、お前はホンナコツそれを地で行っとるにゃ~、しかもそれは俺の枕ばい。げさっか~」と大声で笑い、近所の人たちもつられて笑っていました。皆から笑われた母は、何かを押し隠すようにただ苦笑いするだけでした。
 実はその枕が、その後の僕たち一家の危機を救ってくれるのです。