昭和33年、明治通りの一軒のラーメン屋台、ここの豚骨スープを産湯に僕は生まれました。戦後、日本の国が一番元気がよかった頃のことです。
「神武景気」と呼ばれたこの時代、僕のオヤジも狂ったように元気がよく、酒を飲むと毎日“ちゃぶ台クラッシュ”、僕も母も生傷が絶えず、人は僕の父を“ラーメンの星一徹”と呼んでいました。 僕は小さい頃から“麺揚げ養成ギブス”をつけられていた・・・というのはウソです。
当時の日本は、暗い軍国主義と敗戦の記憶を弾き飛ばすかのような急激な経済発展を背景に、国中が夢と希望に満ちあふれた、まさに民主主義の青春時代でした。久留米のまちも例外ではなく、昼の商店街を歩いても、夜の歓楽街を覗いても、まち中がまるで“毎日お祭り状態”という元気なまちでした。
そんな“時代のお祭り騒ぎ”のなかで、久留米のまちに静かに花を開き始めた小さな「文化」がありました。それは、皆様ご存知「豚骨ラーメン」であります。
豚骨ラーメンは、さらに時代を遡った昭和12年、久留米の屋台「南京千両」から発祥したといわれています(ちなみに僕はここの息子ではありません)。 当時「支那そば」と呼ばれたその豚骨ラーメンは、後の大戦を生き残り、戦後の久留米中の屋台に広がって、やがて県境を越えて九州各地に伝わりました。当然レストランなどない終戦直後の久留米のまちで、ふるさと復興の原動力となってチカライッパイ働いたオトーサンたちのお腹を満たしてくれたのが、屋台で食べる一杯40円の豚骨ラーメンでした。
時は流れ、現在の久留米のまちに当時の面影はありません。あの頃の元気はどこへいったのでしょう。
そこで僕たちは考えました。「もしかしたら“ラーメン”が再び久留米復興の原動力になってくれるかもしれない」と。また、「僕たちラーメン屋を育ててくれた久留米まちに今こそ恩返しするときではないか」と。そして今年発足したのが、全国初の、“民・官・学”が一体となったまちおこし組織 「久留米・ラーメン ルネッサンス委員会」であります。