私の小学生の頃の遊び場は、大砲ラーメン本店前の五穀神社であった。大きな鳥居をくぐって少し進むと200年以上前に造られたという齢を経た渋い石橋がある。橋の下には満々と水を湛えた池。私はこの池での遊びと、ある出来事が最も思い出深い。実は現在のこの池の水は筑後川から引き込んだもの。一旦池を満たした筑後川の水は次に暗い地下の導水管へ導かれ、西鉄久留米駅西側の「池町川起点」より再び日の目を見、池町川を流れながら岸辺を歩く人に憩いを与えている。そんな水の旅の中間地点的な五穀神社の池であるが、昔は何と、自らを湧水で満たしていた独立した池であった。
水の湧き出ていた場所は石橋の中央から見て北西、鬱蒼と茂る大楠の下、池を囲む古い石垣と天然の岩の隙間であった。湧水といっても水量は少なく、3メートルのほどの小さな流れを作って池へ注いでいた。しかし極小でも川は川、それは源流から中流、河口という自然の河川の様相を呈していた。小学5年生のFと私はそれがお気に入りであった。特に雨の降る日は必ず2人でそこへ行き、ずぶ濡れになりながらも、一丁前に増水して濁ったチビ川に泥団子でダムを作ったり堤防を作ったり・・・、いわゆる「治水事業」ごっこである。女子には理解不可能な、男子ならではのディープなママゴトなのだ。その後2人は河川工学関係の道に進んだのかと言うと、Fは幼稚園の理事長、私はラーメン屋になった。ディープなママゴトもそんなものである。
私たちが6年生になった頃、チビ川に異変が起こり始めた。ただでさえ少ない湧水量が更に減ってきたのだ。水の出ない日も増え、やがて枯れた。同時に池の水位も下がりだした。そのペースは速いもので、大量の池の水も日を追うごとに水のない岸辺の面積が広がり、水面は狭まってゆく。私は毎日それを見に通った。数十日で水は直径5~6メートルの浅い水溜り2ケ所となり、そこには生き延びた最後の大小の魚とザリガニが大量にうごめいている。地下で何が起きているのか誰にも解らぬまま数日後、池は完全に干あがった。池の底は乾燥してひび割れ、全面が亀甲模様となり干からびた魚が異臭を漂わせていた。死の世界である。私は二百数十歳の池の臨終に立ち会ってしまったのであった。50年ほど昔の話である。
結局、冒頭に書いたように、のちに五穀神社の池は人の手によって水が戻り現在に至るのだが、おそらく水面下では昨今問題とされている外来種の魚も棲み着いて在来種を駆逐しているであろうし、やはり何と言っても自前の水源が失われた池は不自然で淋しい。
〜追記〜 主題の池の水がなぜそのとき突然枯れたのかは、私自身市史などの資料を詳しく調べた訳ではない(本業はラーメン屋だし)のでその原因を特定できないが、当時の久留米市の都市化の波を受けて、五穀神社周辺のレンコン堀が急速に消滅していたときと時期を一にしていたのは事実である。