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第百十九話 消えゆく「新世界」

 久留米育ちで、ある程度ご年配の方ならご存じと思いますが、六ツ門の一角に「新世界」という、かつての歓楽街があります。間口わずか一間ほどの古い飲み屋がひしめく狭い路地に入ると、いきなり昭和30年代にタイムスリップした感覚にとらわれます。
 この新世界という界隈の成り立ちは、終戦直後に遡ります。昭和20年代初頭のこのあたりは「新興市場」と呼ばれ、引き揚げ者たちに生活物資を供給する、いわゆるバラック市場でした。終日、人で賑わうこの市場には、やがて食堂ができ、飲み屋ができ、昭和30年代になると、近くには映画館が建ち並ぶようになり、30年代後期には久留米随一の歓楽街となりました。ところが40年代後半あたりから、近くに「文化街」という新興歓楽街が台頭し始めると、次第に新世界の賑わいは文化街へとシフトしていきました。さらに飲み屋までが、4~5坪という狭い店と、すれ違うと肩が触れ合う狭い路地の新世界から、明るく広々とした近代的な歓楽街「文化街」へと移転を始めました。
 そして平成の時代に入ると、新世界はますますゴーストタウン化しました。最盛期には、飲み屋に限らず様々な店およそ150を擁していたこの歓楽街も、現在では約20店舗にまで落ち込んでいますが、実は僕はこのゴーストタウン化した新世界に、なぜか魅力を感じていました。それは、15年前にオープンした「新横浜ラーメン博物館」が巻き起こした「昭和レトロ」現象が根底にあります。僕が始めてラーメン博物館の昭和30年代の町並みをそのまま再現した館内を見たときは、強く感動しました。それまで「レトロ」といえば、大方「明治」か「大正」の時代を指すものでした。しかしラーメン博物館は、「そんなに昔ではない、大勢の人々が記憶に残る懐かしい『昭和』をレトロと定義」したのです。僕はその着眼点に感動しました。その後、ラーメン博物館が提唱した「昭和レトロ」は、ある種のムーブメントとなり、やがて全国の様々な商業施設で応用され、現在では「レトロといえば昭和」というイメージが広く定着したように思えます。
 そこで僕はふと思いました。「ちょっと待ってんや、ラーメン博物館のように、何十億円もかけてダミーの昭和の町並みなど作らんでも、久留米には『新世界』ちゅう本物の、生のレトロがあるやんか」と。一筋や二筋くらいの昔の町並みなら、全国どこにでもあります。しかしこの新世界は幾筋もの路地が、碁盤の目のように入り組んだ「面」のエリアです。こんなところは日本中どこにもありません。そこで僕が勝手に計画したのが、九州中のラーメンの名店を新世界に集めようという「九州ラーメン新世界計画」です。詳細は割愛しますが、要は新世界のいまの雰囲気を残したまま、ラーメン屋を中心として、駄菓子屋や古本屋・焼鳥屋・レトロな理髪店などを配してひとつの小さな昭和のまちをつくろうという計画です。そんなことをここ数年、1人でニヤニヤと想像していたら、その新世界も、先日イキナリ東半分が更地になっていました。マンションが建つそうです。久留米の片隅に奇跡的に残された町並みなんぞ残したところで、まちの経済は潤わないといったところでしょう。淋しいことです。そんな考え方が、日本中のまちを同じ景観にしてしまうのかも知れません。

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