ラーメン今昔物語(32)
−昔ラーメン誕生秘話 その2−
ラーメン屋のH.K
Tラーメンの支店としては初めて別名を与えられた「昇和亭」。その名の由来は、創業者である父の名“昇(のぼる)”に 僕の会社の企業理念である“調和”の“和”をからめ、その読みは、やはり創業の時代である“しょうわ”としました。
それは、父も“時代”も一番元気の良かった二〇代後半年〜三〇年代のころの“昭和”であり、大正や明治などの 現在からかけ離れてしまった骨董の時代ではなく、多くの人の記憶に残っている“見覚えのある懐かしい時代”です。
そんな昇和亭には、やはりそのコンセプトに合った旗印が必要です。
そこで今回支店としては異例の、この店オリジナルのCI(Corporate Identityの略・独自にデザインされたシンボルマーク・ ロゴを必要なグラフィックアプリケーションに決められた秩序のもとで体系的に展開させること)を開発することにしました。今までの僕たちの店舗(商品も)開発がそうであったように、今回も外部の代理店やコンサルタント会社へ依頼するという発想はありませんので、当然CIそのもののデザインはもちろんのこと、店舗の内外装からテーブル・椅子などの
調度品・サイン(看板)類・店内POP・什器・カスターセット(テーブルの上の箸立てや調味料入れ)・壁紙・制服と バンダナ、はては名札に至るまで、ひとつのコンセプトのもと、自分たちの手でデザインしなければなりません。
また僕の場合、外食チェーンでよく見かける“支店はすべて判で押したような同じカタチ”というのがとても 気持ち悪く感じるタイプなので、自分の新店開発に対しては「常に新店は、既存店よりカタチもシステムも進化した
ものでなけれなならない」という信念じみたものがあります。 ということは、既存店での様々な問題点を絞り出し、それを解析し、対策を立て、その解決案を新店の基本設計から
厨房レイアウト・機器の開発にまで反映させなければなりません。さらに“物”だけではなく作業オペレーションや 接客サービスという“人”の進化のために、膨大な作業マニュアルの再整備も必要です。
これらすべての作業を、昔ラーメンという新商品の開発・社員への調理教育と同時にやらなければなりませんでした。
いま思えば、そんな気の遠くなる仕事を当時の社員だけでよくぞやったものです。 “キテレツ君”の異名をもつS店長など、新人面接をやりながら店舗図面を描き、ついには新人教育の合間に、
建築現場の監督をやりながらも新型スープレンジやオリジナルのグラスディスペンサーまで開発してしまいました。
CI開発を担当した僕は、カリカリ昔ラードの調理実習の合間に暇をみつけては、前途の什器やバンダナなどの 各種デザインをやり、また各地のアンティークショップを廻って調度品の収集(これは以外と楽しい)。
どうしても欲しかった昭和三〇年代の映画のポスターなどは、近郊のアンティークショップではなかなか手に入らず、ついには東北の田舎町まで探しに出かけた思い出があります(山間のひなびた温泉宿に一人で泊まり、風呂上がりには、
近所のこれまたひなびた居酒屋で高倉健になった気分でイッパイ・・・。出張という名目でこんなイキな旅気分を 満喫したとういうことは、ウチの社員には今でも秘密です)。
もちろんこの新展開発の陰には、S店長だけでなく、何人もの社員たちの努力があったのは言うまでもありませんが、 ヤハリ仕事というものは、楽しくせんとイカンです。“創る”という仕事は特にそうです。暗い気持ちで設計した店や
イヤな気分で開発したラーメンなどにプラスのエネルギーが宿るはずもなく、そんな暗いオーラを発するラーメンと 店にお客さんが集まるワケありませんよね。
ということで、この昇和亭、建坪四〇坪・六二席、千坪の総敷地の中央に位置するかたちで、平成九年一二月に 久留米の南の動脈・上津バイパスについに出現しました。
お陰様で、オープンと同時にこの新しいコンセプトの店は、有り難くも多くのお客様から支持をいただき、 各マスコミからの取材も殺到しました。
・・・だが、しかし!
−次号 乞うご期待−
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